夫がイスタンブルに到着し、ハプニング続きがやっとおさまりホッとしたその夜、友人がアレンジしてくれた夕食に招待された。
18時半にホテルに迎えに行くと言われた私たちは、そのように準備を始めた。シャワー後に髪を乾かしていると、電話がなり「タクシーが来た」とフロントからだった。「タクシーなんて呼んでいませんけれど」と、返事をした。
約束通りの時間にフロントに降りていくと、私たちと同様、今回の講演者であるアメリカ人夫妻がいて、どうやら一緒にタクシーで向かうらしいことがわかった。タクシーは呼ばれていたのだった。友人から夕食は20時からの予約だと聞いていたので、どうしてそんなに時間がかかるのか不思議に思っていたら、ホテルからかなり遠くに行くことになっていた。
友人が指定した場所まで、タクシーで1時間半かかった。イスタンブルの夜の大渋滞を知っているのに、どうしてそんなに遠くまで連れていくのか・・・アメリカ人夫妻と私たちは、何がなんだかわからずに、疲れ切って到着した。友人が待っていた場所が、食事の場所だと思ったら、なんとボートに乗せられた。また、何が何だか分からない・・・
ボートの中で食事?かと思ったら、ライトアップされたボスポラス第二大橋を見ながら、対岸のアジアサイドまでクルージング。とても粋で素敵なサプライズ。綺麗な景色に見惚れてしまった。でも、時間はすでに9時。ホテル出発から2時間半経過。
|
ライトアップされたボスポラス海峡第二大橋 | |
ボートを降りると、一目で高級だとわかるシーフードレストランが予約されていた。そして、そこに彼の知り合いのトルコ人女性Zさんが1人待っていた。とある会社のCEOだと紹介された。
6人なので、友人、Zさん、夫、そして、友人の前に、アメリカ人女性、その夫、私と座った。(私の前が夫)友人は、Zさんに私たち4人を紹介した。私がトルコ語が話せると知ると、どうしてトルコ語を知っているのかと友人に聞いた。(←ここ重要)
前菜から始まり、洗礼された料理が次々とめいめいにサーブされ、食事は11時まで続いた。
その日イスタンブルに到着した夫は、体力の限界だった。アメリカ人夫妻も私も同様、かなり疲れていた。11時になったので、お暇したい旨伝えた。私は、本当に帰りたかった。もうその場にひと時もいたくなかった。
レストランで食事が始まってから、帰るまでZさんは、一度も私たちに話しかけなかった。ずっと、アメリカ人夫妻に英語で話しかけ、友人と4人で話が弾んでいた。Zさんの横にいる夫や斜め前にいる私の顔を一度も見なかった。私たちが、まるでそこに存在しないかのようにZさんは振る舞った。彼らに何枚も自分の写真を見せても、こちらには見せず、夫が話しかけてもろくに返事をしなかった。アメリカ人夫妻は、気を利かせて何度か私たちに話しかけてくれたけれど、Zさんはその話には加わらなかった。夫が、アメリカ人夫妻にふった話題にも入ってこなかった。彼女の体はまっすぐ前ではなく、ずっと彼らの方を向いていた。意識的にしていたのではないと思うが(思いたいが)、最初から最後まで、私たちはZさんのアウトオブ眼中だった。そのアウェイ感は計り知れなかった。
アメリカ人夫妻が同時に、洗面所に行った時、夫は今、2人がいないので、感じたことを彼女に言ってもいいかと、私に聞いた。何を言いたいのか分かったけれど、招待してくれた友人の顔を潰すことになるので、後で私が彼に伝えると言い、私たちは我慢することにした。
最後に席を立つ前に、夫がZさんに流暢な英語は、どこで習ったのかと聞いたところ、トルコの高校で習い、海外に留学した経験はないと答えた。それで納得した。仕事では海外を飛び回っているようだが、仕事でしか外国人と付き合っていない。平場でマイノリティとして扱われた経験がないので、自分がしていることがレイシズムに当たるとは思っていない。
後で、友人に伝えたけれど、彼女はそんな人ではないと笑顔で言われた。夫は、彼女に自分がレイスストであることを伝える方がいいと友人にアドバイスしたが、彼が伝えることはないだろう。Zさんも、きっと海外からのゲストを十分にもてなしたと思っていることだろう。確かに全てが素敵な夜だった、Zさんの振る舞い以外は・・・
こうしてせっかく友人の粋ななサプライズが、大好きなトルコの思い出の中で、初めての黒いシミとなった。早朝からトラブル続きの一日が、この黒いサプライズで締めくくられた。
「夫がトルコにやってきた」完