2024年11月28日木曜日

2024年トルコ滞在で食べたデザート〜新しく発見した美味しい味:その2〜

1996年9月に、初めてトルコへ赴任した日のお昼ご飯は、学部長が連れて行ってくださった大学食堂だった。その時のデザートがトゥルンパ(チュロスをシロップにつけて、柔らかくしたようなデザートと言えば、ご想像いただけると思う)だった。これがなんとも甘くて、耐えられなかったのをよく覚えている。

 では、前回に続き「2024年トルコ滞在で食べたデザート〜新しく発見した美味しい味:その2〜」

1. Baklava(バクラヴァ)

このバクラヴァはあまり甘くなく二つ食べられた(緑色は全てピスタチオ)

トルコのデザートで有名なのは、もちろんナルニア国物語の原書にも出てくるターキッシュディライトだが、バクラヴァも(元祖がどこか論争はさておき)外せない。パイ生地は、バターを練り込んで何層にもするが、バクラヴァは、向こうが透けて見えるほど薄く伸ばした生地を何層にも重ねて層にする。職人技である。オスマン帝国時代は、このバクラヴァの生地を見て邸宅の料理人を選んでいたという。

しかし、これがめっぽう甘い。フォークで刺すと、ジュワーっとシロップが滲み出てくる。バターもたっぷりなため、恐ろしくてカロリーは考えない方がいい。 しかし、こってりしたトルコ料理を食べた後には、食べたくなるので不思議だ。けれど、一つで十分。

2. Sütlü Soğuk Baklava(スユットル・ソーウク・バクラヴァ:ミルク入りの冷たいバクラヴァ)

今回のトルコ滞在で、友人が Sütlü Soğuk Baklava(ミルク入りの冷たいバクラヴァ) が美味しいと言った。冷たい?それもミルク入りのバクラヴァ?!私が知っているトルコの人は、食に関して、かなり保守的だった。ところが、バクラヴァに新しい種類ができている。バクラヴァにミルク? 聞いて驚いた。

4年前に行った時に、ヨーロッパからきたトゥリリチェというミルク(生クリームも)に浸ったケーキのようなデザートが流行っていた。この流れで、Sütlü Soğuk Baklavaが登場したのではないかと推測した。

食べてみないわけには行かない。早速買いに行った。そこにはカダイフ(生地を素麺のように細くしたもので作る、やはりシロップに浸かったデザート)にも、乳製品が使われている新しいデザートがあった。

左はトルコアイス、右は従来のカダイフのデザート

本来のバクラヴァは、薄い層が重なることでパリッとした食感があったけれど、Sütlü Soğuk Baklava(冷たいミルクのバクラヴァ)は、名前の通りミルクに浸かっているので、柔らかい。そして、甘さがミルクで調和され、ちょうどよくて美味しい。一つだけでなく、もっと食べたくなった。カダイフの方は、う〜ん… 別の店でも試してみたい。

左がミルク入りカダイフ、右がミルク入りの冷たいバクラヴァ

3.Trabzon Hurması(トラブゾン・フルマス:トラブゾンのデーツ 渋柿)

左の大きな容器に入っているのはタヒン(胡麻ベースト) 

今回初めて食べて、ハマったデザートは熟した柿(Trabzon Hurması)。シルクロードを通って黒海地方のTrabzon(トラブゾン)からトルコに入ったので、この名前がついたと言われている。Cennet Hurması(天国のデーツ)やJapon Hurması(日本のデーツ) とも呼ばれる。

地中海地方のHatay(ハタイ)には、硬くても渋くなく食べられる甘柿があるそうだが、イスタンブルでは一般的にこのTrabzon Hurmasıと呼ばれている渋柿が、柔らかくなり渋が抜けた状態で売られている。ヘタを取って、スプーンですくって食べる人が多い。

今まで、全く興味がなかったので、買ったこともなかった。そもそも日本でも、柿は好んで食べない。ところが、この熟した渋柿を友人にたくさんもらった。それを滞在先の別の友人宅に持って行ったら、彼女のお母さんが中身を出して冷蔵庫に入れておいてくれた。それでも、私は食べたいと思わなかった。

ところが、ある夜、友人が冷えたその柔らかい柿を器に入れて持ってきてくれた。柿の上にはタヒン(胡麻ペースト)がかかっていた。「混ぜて食べたら美味しいよ」という友人の勧めで、口に入れた。美味しい!!初めての味。柿と胡麻ペーストってこんなに合うものだったとは。

ハマるとは、こういうことをいうのかと実感した。というのもそれから、毎日食べ続けて1人で全部食べてしまったからだ。

それだけでは飽き足らず、日本に戻ってからも柿を買っては熟させて、トルコで買って帰った胡麻ペーストを入れて食べている。人生でこんなに柿を食べたのは初めてのこと。今も、冷凍庫の中に熟した柿の中身が入っている。柿の季節が終わっても、楽しみは続く。

4.番外編 Medovik (メドヴィック:ロシアの蜂蜜ケーキ)

これは、トルコのケーキではないんだけれど、トルコに行くと必ず食べたくなるロシアの蜂蜜ケーキ、メドヴィック。トルコにはドイツのコーヒーショップTchibo(チボー)があり、そこで買える。

バームクーヘンのように薄い蜂蜜が入った生地を焼き、間にサワークリームを使ったクリームが入っている。ドイツのTchiboにもあるのかわからないが、これがめっぽう私の好み。日本でも作り方を調べてみたけれど、うまくできそうにない。通販があったので、試してみようかと思案中。

カトメルとか、カイマックル・エクメックカダイフとか、まだまだ食べたいトルコのデザートはあったけれど、それは次回のお楽しみということにしておこう。

2024年11月24日日曜日

2024年トルコ滞在で食べたデザート〜新しく発見した美味しい味:その1〜

トルコは食べ物がとても美味しい。きっとトルコに行かれた方は「そうだった」とうなずかれるだう。

私はトルコ料理をしっかりいただいた後には、なぜだかデザートが無性に食べたくなる。デザートを食べないと、食事が終わらない気がする。そして、このデザートは、日本で口にするようなファンシーなケーキでも和菓子でもなく、欲するのはトルコのデザート。そのトルコのデザートについて書こうと思う。

今回のトルコ滞在でも、デザートをよく食べた。(それでも、食べたかった全部を口にすることはできなかったけれど)新しいデザートとも出会えたので、ここで紹介したい。

1.Peynir Helvası( チーズ・ヘルヴァス)

ヘルヴァは、小麦粉かセモリナ粉をバターで練り、そこに砂糖で作ったシロップを加えていき練り上げたお菓子が一般的に家庭で作られるが、胡麻ペーストで作るヘルヴァも売られている。

トルコにはオスマン帝国時代からたくさんヘルヴァの種類があり、Helva sohbeti(ヘルヴァ・ソフベティ)と呼ばれ、男性サロンともいうべきお金持ちの集まりでも食されていた。現在でもいろんな場面でヘルヴァを食べる。このお菓子はトルコ文化との結びつきが深い。(詳しくは拙著をお読みください『トルコ料理の誘惑』のご注文(amazon) ここをクリックするとamazonに移動します

チーズ・ヘルヴァスは、チャナッカレのエジネという町が有名らしい。エジネは、その名前がついたチーズでも有名だ。今まで何度も「チーズ・ヘルヴァス」という名前を聞いていたけれど、口にする機会がなかった。今回友人がチャナッカレのトロイ遺跡に連れて行ってくれた時にエジネに寄り、購入することができた。「温めてアイスクリームと一緒に食べるのをお勧めします」と、店の人に言われたので、その通りにした。

トルコアイスは粘りが強くナイフで切る
アイスクリーム(トルコのアイスクリームはナイフで切るほど弾力がある)が暖かいヘルヴァの上で溶け、ソースのようになって美味しい。やっぱりかなり甘かったけれど、ほのかにチーズの味がしてなかなかのものだった。

 

2.Kabak Tatlısı(カバック・タットゥルス)

トルコで冬のデザートの一つといえばカボチャのデザート、カバック・タットゥルス。何度も食べたことがある。トルコのカボチャは日本のより水分が多く、繊維質だ。色が濃いオレンジだからきっとホクホクで、甘いカボチャに違いないと思い、バザールで何度失敗したことか。

だから、トルコではカボチャは砂糖を入れ、炊いてデザートにする。そして、食べる時には、砕いた胡桃をかけたり、タヒン(胡麻ペースト)をかける。今まで食べたものはそうだった。ところが、初めての味のカバック・タットゥルスにAdapazarı(アダパザール:1999年8月にトルコで大きな地震が起こった震源地)で出会った。

Adapazarıは、カボチャで有名らしい。そこで出てきた カバック・タットゥルスは、今までと違い、濃い牛乳か生クリームか、とにかく乳製品に浸かっていた。カボチャもねっとりと仕上がっていて、それがクリームとマッチして大層おいしかった。さすがカボチャ本場のデザート、また食べたいと思った。

続きは次へ…

2024年11月21日木曜日

トルコのホームタウンBeşiktaş(ベシクタシュ)〜今でも変わっていない大好きなお店〜

トルコの地方都市大学で日本語を教えて帰国する前に、まずトルコ語を勉強しようと思い、大都会イスタンブルに出てきた。そして最初に住んだ街がBeşiktaş(ベシクタシュ)だった。その後帰国するまでの12年間、この街で過ごした。ベシクタシュは私のトルコでのホームタウンと言える。

この魚市場の横にある小さな魚屋さんでよく買っていた

帰国してからトルコに戻ってくるたびに、この街を訪れる。そして、いつも通っていた道に来ると「この坂を上がると住んでいたアパートがあったなぁ。でも、もう帰る場所はないんだなぁ…」と思い、今でも鼻の奥がジーンとする。

ベシクタシュは学生の街なので、当時からカフェやバーがたくさんあった。それが、私が帰国する少し前から、やたらとバーの数が増え、仕事の帰り道にショートカットしていた小道に、椅子や机が並べられ、通れなくなっていた。

今回のトルコ滞在中、ベシクタシュのカフェで担当教官と待ち合わせをした。それまでに時間があったので、懐かしい場所を散策しようと思い、街を歩き始めた。犬も歩けばカフェとバーに当たる…そんなベシクタシュになっていた。

それでも、私がいた頃によく買っていた小さな魚屋さんが、そこにあった。地中海から上がった生のマグロが輪切りにされていて、大トロも赤身も同じ値段だったのに驚いた記憶がある。新鮮な小鯵を3枚におろしてお寿司を作り、友人に食べる勇気があるかどうか尋ねたら間髪入れず「食べる!」と言ったので、一緒に食べたのも懐かしい。

疲れた時にテイクアウトしていたロカンタと呼ばれる食堂も残っていた。ここの卵がのった巣ごもりほうれん草が大好きだった。日本であんなにたくさんほうれん草を使ったら高い料理になってしまう。

好きな料理を選んで注文するロカンタ

その横にあるトゥルシュ(お漬物)屋さん。小指ほどのキュウリのお漬物は、カリっとしていて、私のお気に入りだった。キャベツとモロッコインゲンのトゥルシュも、ご飯のお供によく合う。  そのまた横のベシクタシュ・キョフテジ(炭火で焼いた小さい肉団子を売る店)も、残っていた。 

日本の古漬けに似た味でいろんな野菜のお漬物が売られている

そして、何よりオスマン帝国時代から続くクッキー屋さん。名前は7-8 Hasanpaşa Fırını(イェディ-セキズ・ハサンパシャ・フルヌ)。私がいた時には4代目だったそうだから、もう5代目に代替わりしているのかもしれない。19世紀後半、オスマン帝国時代にハサンという人がいて、彼が皇帝アブデュルハミト2世の命を救い、そのため彼にパシャ(高官の意味)の称号が与えられたそうだ。しかし、彼は非識字者だったため、書類にサインするときに唯一知っているペルシャ語で٧(7)と٨(8)を書いた。そこからこの店の名前が7-8 ハサンパシャ・フルヌになったという。

ここの焼き菓子は種類が多くとても美味しい

パンも焼いているが、やはりたくさんの種類の焼き菓子が有名だ。いつも行列が並んでいる。甘いのから、日本では珍しいワインのおつまみにもいける塩味の焼き菓子も美味しい。私もよく、友人の家に行くときに、ここで買って行ったものだ。今度行ったら好きな焼き菓子を買いがてら、写真も撮らせてもらおう。

私のホームタウン、ベシクタシュはカフェとバーだらけになってしまったけれど、コロナ禍にも負けず、大好きだった店が以前のまま残っていたのを見て、たまらなく嬉しくなった。

2024年10月14日月曜日

ボスポラス海峡最狭部に建つAnadolu Hisarı(アナドル・ヒサル:アナトリア要塞)博物館

 

イスタンブルはボスポラス海峡を挟んで、アジア大陸とヨーロッパ大陸にまたがっています。そのため、「明日はアジア側でお茶しよう」とか「友達の会社はヨーロッパ側にある」なんて会話は日常的でした。

イスタンブルを二分するのは、黒海からマルマラ海へと続くボスポラス海峡です。長さは南北約30キロメートルで水深は36メートルから124メートル。幅は最長で3700メートル、そして最短が698メートル。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%B5%B7%E5%B3%A1
その幅が一番短い両側にヨーロッパサイドのRumeli Hisarı(ルメリ・ヒサル:ヨーロッパ要塞)とアジアサイドのAnadolu Hisarı(アナドル・ヒサル:アナトリア要塞)があります。

ヨーロッパ側にあるルメリ・ヒサルは、オスマン帝国スルタンのメフメット2世が、東ローマの都コンスタンティノープルを攻略するため、1452年にわずか4か月で造らせた重要な要塞です。

             ヨーロッパサイドにあるルメリ・ヒサル 

そして、その対岸のアジア側に、ルメリヒサルを造らせたスルタン・メフメット2世の曽祖父ベヤズィッド1世が1395年に建造したアナドル・ヒサルがあります。アナドル・ヒサルは長い間改修されていませんでしたが、現在は博物館になっていたので行ってきました。

アナドル・ヒサルは、黒海から東ローマへ向かう援助を阻止し、コンスタンティノープルを攻略しボスポラス海峡の支配を確立するための準備の一つとして建設されました。

すぐ向こうが海で、ここから砲撃しました
コンスタンチノープルを陥落させたメフメット2世は、1452年にルメリ・ヒサルを建設しましたが、アナドル・ヒサルにも3つの外壁を作りました。この外壁は海岸のすぐ側に建てられ、3方向に向いて建てたれていたため、南北と西へと砲撃できたことから、容易に船舶を封鎖する力を持っていました。

また、アナドル・ヒサルは16世紀から17世紀にかけてボスポラス海峡の安全を確保するために使用され、コサック攻撃への最後の防戦後には、刑務所としても使われていた時期もありました。

 

オープンエアーのモスク

アナドル・ヒサルの中にはトルコ人居住区もできていたため、モスクまでありました。オープンエアーのモスクは初めてです。

2024年10月12日土曜日

トルコのスーパー〜やっぱりスーパーは面白い〜

海外で一番好きな場所はスーパーです。社会学者なのにスーパーに全く興味のない家人と一緒に行くと、ゆっくり見て回れないので、いつも1人で、その土地の人の暮らしが垣間見えるスーパーに行きます。

トルコでも、必ずスーパーに行き何が流行っているのかチェックします。今回も早速、5キロの砂糖と5リットルの油が売られているのを見て「トルコに来たなぁ…」と実感しました。

5キロの砂糖は約700円

5キロの油は約1000円 

ちょうど冬支度の準備が始まっていたので、自宅で漬けるための生のオリーブや漬物にする熟していない緑のトマト、きゅうり、ウリや唐辛子などが売られていました。

余談になりますが、トマトは現在のトルコ料理に欠かせないものとして思われていますが、トマトが南米から入ってきてトプカプ宮殿で使われるようになったのは17世紀末です。その当時、赤くなったトマトは腐っていると思われて捨てられ、もっぱら未熟な緑のトマトが漬物にされ食事の味付けに使われていました。当時から未熟なトマトを漬物にしていたようです。

トルコでトマトは「ドマテス」と言いますが、最初はカヴァタと呼ばれていました。それが19世紀には「フランク・パトルジャヌ(フランス茄子 )」と呼ばれ、現在の「ドマテス」に変わりました。(詳しくは『トルコ料理の誘惑』現代企画室、井藤聖子 をお読みください)

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日本では見かけませんが、トルコでは、ほうれん草の根っこだけが売られています。これも美味しい料理に変わります。

スーパーには時々、機械で翻訳しているのだと思いますが、再度チェックしていないのか、面白い日本語表記のものを見つけます。

どうぞ美味しい天ぷらを「楽しげで」食べてください。

2024年10月8日火曜日

トルコ・イスタンブル災害マネージメントエキスポでの講演:NADMEX2024 Afet Yöntemi Zirvesi

コロナ禍以来、4年半トルコに戻る機会がなく、トルコがだんだん外国だと感じ始めた頃、イスタンブル災害マネージメントエキスポに招聘されました。

防災といえば、災害リスクや対策の技術的なことが一番に思い浮かびますが、夫と私は被災者の経験を語ること、そしてそれを聴くことの重要さを伝えたく参加することにし「Sharing and Listening to Survivor’s Memories:The Socio-Cultural impacts of Earthquake Narratives in Türkiye and Japan」というタイトルで話しました。

 講演の最初に、トルコ語で話した一部を日本語訳にしたものを書きます。

「社会の防災レベルを高めるためには、専門家だけでなく、一般の人々も防災に関心を持つべきだと、私たちは考えています。そのためには、防災の技術やデータだけでなく、被災者自身が語る経験談が人々の心を動かすのを知っています。今回、私たちは、次世代が被災者の記憶に耳を傾けることの重要さを伝えたいと思います。」

冒頭で述べた「記憶」について少し説明すると、「記憶」は本来個人的なものとしてとらえられていますが、家族や国民などのさまざまな集団にも想定する概念である「集合的記憶」に繋がります。

「集合的記憶」の研究者であるドイツのヤン・アスマンとアライダ・アスマンは「集合的記憶」を2つに分類しました。「文化的記憶」と「コミニケーション的記憶」です。

「文化的記憶」は、文学や絵、モニュメントなどで長期的保存が可能です。それに対して「コミニケーション的記憶」は、人から人へと口頭伝承により継承されるため短期保存になります。

しかし、いくら素晴らしい文化的記憶が存在しても、次世代がそれに関心をもたなければ意味をなしません。同様に、口頭伝承の場合は、人からひへと直接受け継がれるので、語り継ぐための社会制度やメカニズムが整えられなければ、長期にわたり保持されることは不可能です。

つまり、次世代が起こった災害に関心を持つことで、その記憶は継がれていきます。そのためには、被災者が記憶を語り、それを聴く場が必要です。そして、当事者である被災者は自身の経験したことを語りたがっています。

この記憶調査のため、1999年に起こったマルマラ地震(イズミット地震やコジャエリ地震とも言われる)の被災者にインタビューしに、私たちは2018年の夏、震源地であるギョルジュクへと向かい、直接被災者にインタビューし、経験したことを聴きました。

実はその前に、トルコの研究者たちから「そんなこと聴いてどうするのか」「被災者は、語りたがらない」「被災者は、上手く語れない」などと否定的な言葉を聞いたので、きちんと聴きとりができるか心配していました。

ところが、現地に行き最初に、地震を経験したか、経験した人を知っているかと尋ねたところ、すぐに一人の男性を連れてきてくれ、その人は辛い経験を語ってくれました。

その他、公園でもカフべハネ(男性が集まってコーヒーやお茶を飲みながらバックギャモンやトルコ風麻雀をする場所)でも、初めて会った外国人の私に、彼らは雄弁に語ってくれました。「語り部」でもないその彼らの語りには、文学的要素が多く含まれていて驚いたのをよく覚えています。

彼らの話を聴いて、トルコの被災者は記憶を伝えたい、聴いてほしいのだと実感しました。そして、この記憶継承こそ、防災の重要な一つのファクターであり、私たちは次世代へとつなげていかなければならないものだと確信しました。 

マルマラ地震の被災者の語りと、阪神・淡路大震災で被災した語り部の語りを比較した私たちの講演は、2日目の朝一の10時半からだったので、多くの聴衆を予想していませんでした。ところが、始まってみると、満席になり最後は後ろに立っている人だかりができていました。

これからまだどんどんと増えていきました。 

 講演の間中、多くの人が何度もスクリーンを写していました。そして、終わってからは、レジメを欲しいと何人もの人からリクエストがありました。私たちの発表が、トルコの防災マネージメントに新しい視点をもたらすことができたのであれば、大変光栄に思います。


     
講演後、このほかにもたくさんの人から一緒に写真をお願いされました。





         

2024年10月7日月曜日

トルコの学校で児童・生徒と楽しく過ごす〜阪神淡路大震災の被災体験を語る〜

私がトルコ滞在中にお世話になった先生の勤めている学校で、児童・生徒に私のトルコ経験や出版した本について話してほしいと頼まれました。

小さな私立学校なので、小学一年生から高校生まで約40人ぐらいが講堂に集まりました。

どうしてトルコに来たのか、トルコで何をしたのか、トルコに来て驚いたことなどを最初に話しました。

次に、どうしてトルコ料理の本を書いたのか話してほしいと言われ、その理由を話す上でまず、子供たちに「どうして、トルコのエリシテ(トルコの伝統的なパスタは、長いものを短く切って乾燥させる)は、スパゲッティや、ラーメン(日本の漫画から知っている児童・学生が多い)のように長くないと思う?」と、聞いてみました。

このように短く切って乾燥させる(友人の手作り)
 トルコの子供たちは、恥ずかしがらずに、どんどん意見を言います。1人の学生が「食べるのが楽だから」と言いました。その通りです。トルコでは、食事にスプーンを使っていたので、わざわざ長いパスタを短く切って乾燥させていました。オスマン帝国時代の絵を見ても、みんなスプーンで食べています。イェニチェリ(オスマン帝国時代の歩兵軍。帝国の軍事行動の中心になって活動した)のビョルク帽の前にはスプーンが刺されていたことなどを説明しました。

オスマン帝国時代には真ん中に置かれたスープやピラフを各人がスプーンで食しました

反対に私への質問で、一番多かったのは、予想通り「トルコ料理で一番好きなのは何ですか?」でした。私は「ヒュンキャール ベーンディ(スルタンのお気に入りという名前。以前からあったトルコ料理にフランス料理の影響が入った一品)と答えました。大好きな料理です。

ナスのペーストにベシャメルソースとチーズを加えたヒュンキャール/ベーンディ
最後に、1995年の阪神大震災の経験を話してほしいと、先生のリクエストがあったので、私の被災経験とトラウマについて話しました。

それまでは、賑やかに質問したり、少し騒がしく話したりしていた彼女、彼らの顔つきが、がらりとかわり一気に真剣に聴き始めました。

今回、地震の被災者の語りとそれを聴くことの大切さをテーマにした講演をするためにイスタンブルに来ました。この学校で私の経験を語ることが、まさに私たちのテーマを実践しているのだと、目の前の子供たちの表情を見て感じました。

学校の給食(インゲン豆の煮込み、ピラフ、ヨーグルト、サラダ)  
 

とても充実した一日でした。お誘いくださり、ありがとうございました。