2024年11月24日日曜日

2024年トルコ滞在で食べたデザート〜新しく発見した美味しい味:その1〜

トルコは食べ物がとても美味しい。きっとトルコに行かれた方は「そうだった」とうなずかれるだう。

私はトルコ料理をしっかりいただいた後には、なぜだかデザートが無性に食べたくなる。デザートを食べないと、食事が終わらない気がする。そして、このデザートは、日本で口にするようなファンシーなケーキでも和菓子でもなく、欲するのはトルコのデザート。そのトルコのデザートについて書こうと思う。

今回のトルコ滞在でも、デザートをよく食べた。(それでも、食べたかった全部を口にすることはできなかったけれど)新しいデザートとも出会えたので、ここで紹介したい。

1.Peynir Helvası( チーズ・ヘルヴァス)

ヘルヴァは、小麦粉かセモリナ粉をバターで練り、そこに砂糖で作ったシロップを加えていき練り上げたお菓子が一般的に家庭で作られるが、胡麻ペーストで作るヘルヴァも売られている。

トルコにはオスマン帝国時代からたくさんヘルヴァの種類があり、Helva sohbeti(ヘルヴァ・ソフベティ)と呼ばれ、男性サロンともいうべきお金持ちの集まりでも食されていた。現在でもいろんな場面でヘルヴァを食べる。このお菓子はトルコ文化との結びつきが深い。(詳しくは拙著をお読みください『トルコ料理の誘惑』のご注文(amazon) ここをクリックするとamazonに移動します

チーズ・ヘルヴァスは、チャナッカレのエジネという町が有名らしい。エジネは、その名前がついたチーズでも有名だ。今まで何度も「チーズ・ヘルヴァス」という名前を聞いていたけれど、口にする機会がなかった。今回友人がチャナッカレのトロイ遺跡に連れて行ってくれた時にエジネに寄り、購入することができた。「温めてアイスクリームと一緒に食べるのをお勧めします」と、店の人に言われたので、その通りにした。

トルコアイスは粘りが強くナイフで切る
アイスクリーム(トルコのアイスクリームはナイフで切るほど弾力がある)が暖かいヘルヴァの上で溶け、ソースのようになって美味しい。やっぱりかなり甘かったけれど、ほのかにチーズの味がしてなかなかのものだった。

 

2.Kabak Tatlısı(カバック・タットゥルス)

トルコで冬のデザートの一つといえばカボチャのデザート、カバック・タットゥルス。何度も食べたことがある。トルコのカボチャは日本のより水分が多く、繊維質だ。色が濃いオレンジだからきっとホクホクで、甘いカボチャに違いないと思い、バザールで何度失敗したことか。

だから、トルコではカボチャは砂糖を入れ、炊いてデザートにする。そして、食べる時には、砕いた胡桃をかけたり、タヒン(胡麻ペースト)をかける。今まで食べたものはそうだった。ところが、初めての味のカバック・タットゥルスにAdapazarı(アダパザール:1999年8月にトルコで大きな地震が起こった震源地)で出会った。

Adapazarıは、カボチャで有名らしい。そこで出てきた カバック・タットゥルスは、今までと違い、濃い牛乳か生クリームか、とにかく乳製品に浸かっていた。カボチャもねっとりと仕上がっていて、それがクリームとマッチして大層おいしかった。さすがカボチャ本場のデザート、また食べたいと思った。

続きは次へ…

2024年11月21日木曜日

トルコのホームタウンBeşiktaş(ベシクタシュ)〜今でも変わっていない大好きなお店〜

トルコの地方都市大学で日本語を教えて帰国する前に、まずトルコ語を勉強しようと思い、大都会イスタンブルに出てきた。そして最初に住んだ街がBeşiktaş(ベシクタシュ)だった。その後帰国するまでの12年間、この街で過ごした。ベシクタシュは私のトルコでのホームタウンと言える。

この魚市場の横にある小さな魚屋さんでよく買っていた

帰国してからトルコに戻ってくるたびに、この街を訪れる。そして、いつも通っていた道に来ると「この坂を上がると住んでいたアパートがあったなぁ。でも、もう帰る場所はないんだなぁ…」と思い、今でも鼻の奥がジーンとする。

ベシクタシュは学生の街なので、当時からカフェやバーがたくさんあった。それが、私が帰国する少し前から、やたらとバーの数が増え、仕事の帰り道にショートカットしていた小道に、椅子や机が並べられ、通れなくなっていた。

今回のトルコ滞在中、ベシクタシュのカフェで担当教官と待ち合わせをした。それまでに時間があったので、懐かしい場所を散策しようと思い、街を歩き始めた。犬も歩けばカフェとバーに当たる…そんなベシクタシュになっていた。

それでも、私がいた頃によく買っていた小さな魚屋さんが、そこにあった。地中海から上がった生のマグロが輪切りにされていて、大トロも赤身も同じ値段だったのに驚いた記憶がある。新鮮な小鯵を3枚におろしてお寿司を作り、友人に食べる勇気があるかどうか尋ねたら間髪入れず「食べる!」と言ったので、一緒に食べたのも懐かしい。

疲れた時にテイクアウトしていたロカンタと呼ばれる食堂も残っていた。ここの卵がのった巣ごもりほうれん草が大好きだった。日本であんなにたくさんほうれん草を使ったら高い料理になってしまう。

好きな料理を選んで注文するロカンタ

その横にあるトゥルシュ(お漬物)屋さん。小指ほどのキュウリのお漬物は、カリっとしていて、私のお気に入りだった。キャベツとモロッコインゲンのトゥルシュも、ご飯のお供によく合う。  そのまた横のベシクタシュ・キョフテジ(炭火で焼いた小さい肉団子を売る店)も、残っていた。 

日本の古漬けに似た味でいろんな野菜のお漬物が売られている

そして、何よりオスマン帝国時代から続くクッキー屋さん。名前は7-8 Hasanpaşa Fırını(イェディ-セキズ・ハサンパシャ・フルヌ)。私がいた時には4代目だったそうだから、もう5代目に代替わりしているのかもしれない。19世紀後半、オスマン帝国時代にハサンという人がいて、彼が皇帝アブデュルハミト2世の命を救い、そのため彼にパシャ(高官の意味)の称号が与えられたそうだ。しかし、彼は非識字者だったため、書類にサインするときに唯一知っているペルシャ語で٧(7)と٨(8)を書いた。そこからこの店の名前が7-8 ハサンパシャ・フルヌになったという。

ここの焼き菓子は種類が多くとても美味しい

パンも焼いているが、やはりたくさんの種類の焼き菓子が有名だ。いつも行列が並んでいる。甘いのから、日本では珍しいワインのおつまみにもいける塩味の焼き菓子も美味しい。私もよく、友人の家に行くときに、ここで買って行ったものだ。今度行ったら好きな焼き菓子を買いがてら、写真も撮らせてもらおう。

私のホームタウン、ベシクタシュはカフェとバーだらけになってしまったけれど、コロナ禍にも負けず、大好きだった店が以前のまま残っていたのを見て、たまらなく嬉しくなった。

2024年10月14日月曜日

ボスポラス海峡最狭部に建つAnadolu Hisarı(アナドル・ヒサル:アナトリア要塞)博物館

 

イスタンブルはボスポラス海峡を挟んで、アジア大陸とヨーロッパ大陸にまたがっています。そのため、「明日はアジア側でお茶しよう」とか「友達の会社はヨーロッパ側にある」なんて会話は日常的でした。

イスタンブルを二分するのは、黒海からマルマラ海へと続くボスポラス海峡です。長さは南北約30キロメートルで水深は36メートルから124メートル。幅は最長で3700メートル、そして最短が698メートル。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%B5%B7%E5%B3%A1
その幅が一番短い両側にヨーロッパサイドのRumeli Hisarı(ルメリ・ヒサル:ヨーロッパ要塞)とアジアサイドのAnadolu Hisarı(アナドル・ヒサル:アナトリア要塞)があります。

ヨーロッパ側にあるルメリ・ヒサルは、オスマン帝国スルタンのメフメット2世が、東ローマの都コンスタンティノープルを攻略するため、1452年にわずか4か月で造らせた重要な要塞です。

             ヨーロッパサイドにあるルメリ・ヒサル 

そして、その対岸のアジア側に、ルメリヒサルを造らせたスルタン・メフメット2世の曽祖父ベヤズィッド1世が1395年に建造したアナドル・ヒサルがあります。アナドル・ヒサルは長い間改修されていませんでしたが、現在は博物館になっていたので行ってきました。

アナドル・ヒサルは、黒海から東ローマへ向かう援助を阻止し、コンスタンティノープルを攻略しボスポラス海峡の支配を確立するための準備の一つとして建設されました。

すぐ向こうが海で、ここから砲撃しました
コンスタンチノープルを陥落させたメフメット2世は、1452年にルメリ・ヒサルを建設しましたが、アナドル・ヒサルにも3つの外壁を作りました。この外壁は海岸のすぐ側に建てられ、3方向に向いて建てたれていたため、南北と西へと砲撃できたことから、容易に船舶を封鎖する力を持っていました。

また、アナドル・ヒサルは16世紀から17世紀にかけてボスポラス海峡の安全を確保するために使用され、コサック攻撃への最後の防戦後には、刑務所としても使われていた時期もありました。

 

オープンエアーのモスク

アナドル・ヒサルの中にはトルコ人居住区もできていたため、モスクまでありました。オープンエアーのモスクは初めてです。

2024年10月12日土曜日

トルコのスーパー〜やっぱりスーパーは面白い〜

海外で一番好きな場所はスーパーです。社会学者なのにスーパーに全く興味のない家人と一緒に行くと、ゆっくり見て回れないので、いつも1人で、その土地の人の暮らしが垣間見えるスーパーに行きます。

トルコでも、必ずスーパーに行き何が流行っているのかチェックします。今回も早速、5キロの砂糖と5リットルの油が売られているのを見て「トルコに来たなぁ…」と実感しました。

5キロの砂糖は約700円

5キロの油は約1000円 

ちょうど冬支度の準備が始まっていたので、自宅で漬けるための生のオリーブや漬物にする熟していない緑のトマト、きゅうり、ウリや唐辛子などが売られていました。

余談になりますが、トマトは現在のトルコ料理に欠かせないものとして思われていますが、トマトが南米から入ってきてトプカプ宮殿で使われるようになったのは17世紀末です。その当時、赤くなったトマトは腐っていると思われて捨てられ、もっぱら未熟な緑のトマトが漬物にされ食事の味付けに使われていました。当時から未熟なトマトを漬物にしていたようです。

トルコでトマトは「ドマテス」と言いますが、最初はカヴァタと呼ばれていました。それが19世紀には「フランク・パトルジャヌ(フランス茄子 )」と呼ばれ、現在の「ドマテス」に変わりました。(詳しくは『トルコ料理の誘惑』現代企画室、井藤聖子 をお読みください)

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日本では見かけませんが、トルコでは、ほうれん草の根っこだけが売られています。これも美味しい料理に変わります。

スーパーには時々、機械で翻訳しているのだと思いますが、再度チェックしていないのか、面白い日本語表記のものを見つけます。

どうぞ美味しい天ぷらを「楽しげで」食べてください。

2024年10月8日火曜日

トルコ・イスタンブル災害マネージメントエキスポでの講演:NADMEX2024 Afet Yöntemi Zirvesi

コロナ禍以来、4年半トルコに戻る機会がなく、トルコがだんだん外国だと感じ始めた頃、イスタンブル災害マネージメントエキスポに招聘されました。

防災といえば、災害リスクや対策の技術的なことが一番に思い浮かびますが、夫と私は被災者の経験を語ること、そしてそれを聴くことの重要さを伝えたく参加することにし「Sharing and Listening to Survivor’s Memories:The Socio-Cultural impacts of Earthquake Narratives in Türkiye and Japan」というタイトルで話しました。

 講演の最初に、トルコ語で話した一部を日本語訳にしたものを書きます。

「社会の防災レベルを高めるためには、専門家だけでなく、一般の人々も防災に関心を持つべきだと、私たちは考えています。そのためには、防災の技術やデータだけでなく、被災者自身が語る経験談が人々の心を動かすのを知っています。今回、私たちは、次世代が被災者の記憶に耳を傾けることの重要さを伝えたいと思います。」

冒頭で述べた「記憶」について少し説明すると、「記憶」は本来個人的なものとしてとらえられていますが、家族や国民などのさまざまな集団にも想定する概念である「集合的記憶」に繋がります。

「集合的記憶」の研究者であるドイツのヤン・アスマンとアライダ・アスマンは「集合的記憶」を2つに分類しました。「文化的記憶」と「コミニケーション的記憶」です。

「文化的記憶」は、文学や絵、モニュメントなどで長期的保存が可能です。それに対して「コミニケーション的記憶」は、人から人へと口頭伝承により継承されるため短期保存になります。

しかし、いくら素晴らしい文化的記憶が存在しても、次世代がそれに関心をもたなければ意味をなしません。同様に、口頭伝承の場合は、人からひへと直接受け継がれるので、語り継ぐための社会制度やメカニズムが整えられなければ、長期にわたり保持されることは不可能です。

つまり、次世代が起こった災害に関心を持つことで、その記憶は継がれていきます。そのためには、被災者が記憶を語り、それを聴く場が必要です。そして、当事者である被災者は自身の経験したことを語りたがっています。

この記憶調査のため、1999年に起こったマルマラ地震(イズミット地震やコジャエリ地震とも言われる)の被災者にインタビューしに、私たちは2018年の夏、震源地であるギョルジュクへと向かい、直接被災者にインタビューし、経験したことを聴きました。

実はその前に、トルコの研究者たちから「そんなこと聴いてどうするのか」「被災者は、語りたがらない」「被災者は、上手く語れない」などと否定的な言葉を聞いたので、きちんと聴きとりができるか心配していました。

ところが、現地に行き最初に、地震を経験したか、経験した人を知っているかと尋ねたところ、すぐに一人の男性を連れてきてくれ、その人は辛い経験を語ってくれました。

その他、公園でもカフべハネ(男性が集まってコーヒーやお茶を飲みながらバックギャモンやトルコ風麻雀をする場所)でも、初めて会った外国人の私に、彼らは雄弁に語ってくれました。「語り部」でもないその彼らの語りには、文学的要素が多く含まれていて驚いたのをよく覚えています。

彼らの話を聴いて、トルコの被災者は記憶を伝えたい、聴いてほしいのだと実感しました。そして、この記憶継承こそ、防災の重要な一つのファクターであり、私たちは次世代へとつなげていかなければならないものだと確信しました。 

マルマラ地震の被災者の語りと、阪神・淡路大震災で被災した語り部の語りを比較した私たちの講演は、2日目の朝一の10時半からだったので、多くの聴衆を予想していませんでした。ところが、始まってみると、満席になり最後は後ろに立っている人だかりができていました。

これからまだどんどんと増えていきました。 

 講演の間中、多くの人が何度もスクリーンを写していました。そして、終わってからは、レジメを欲しいと何人もの人からリクエストがありました。私たちの発表が、トルコの防災マネージメントに新しい視点をもたらすことができたのであれば、大変光栄に思います。


     
講演後、このほかにもたくさんの人から一緒に写真をお願いされました。





         

2024年10月7日月曜日

トルコの学校で児童・生徒と楽しく過ごす〜阪神淡路大震災の被災体験を語る〜

私がトルコ滞在中にお世話になった先生の勤めている学校で、児童・生徒に私のトルコ経験や出版した本について話してほしいと頼まれました。

小さな私立学校なので、小学一年生から高校生まで約40人ぐらいが講堂に集まりました。

どうしてトルコに来たのか、トルコで何をしたのか、トルコに来て驚いたことなどを最初に話しました。

次に、どうしてトルコ料理の本を書いたのか話してほしいと言われ、その理由を話す上でまず、子供たちに「どうして、トルコのエリシテ(トルコの伝統的なパスタは、長いものを短く切って乾燥させる)は、スパゲッティや、ラーメン(日本の漫画から知っている児童・学生が多い)のように長くないと思う?」と、聞いてみました。

このように短く切って乾燥させる(友人の手作り)
 トルコの子供たちは、恥ずかしがらずに、どんどん意見を言います。1人の学生が「食べるのが楽だから」と言いました。その通りです。トルコでは、食事にスプーンを使っていたので、わざわざ長いパスタを短く切って乾燥させていました。オスマン帝国時代の絵を見ても、みんなスプーンで食べています。イェニチェリ(オスマン帝国時代の歩兵軍。帝国の軍事行動の中心になって活動した)のビョルク帽の前にはスプーンが刺されていたことなどを説明しました。

オスマン帝国時代には真ん中に置かれたスープやピラフを各人がスプーンで食しました

反対に私への質問で、一番多かったのは、予想通り「トルコ料理で一番好きなのは何ですか?」でした。私は「ヒュンキャール ベーンディ(スルタンのお気に入りという名前。以前からあったトルコ料理にフランス料理の影響が入った一品)と答えました。大好きな料理です。

ナスのペーストにベシャメルソースとチーズを加えたヒュンキャール/ベーンディ
最後に、1995年の阪神大震災の経験を話してほしいと、先生のリクエストがあったので、私の被災経験とトラウマについて話しました。

それまでは、賑やかに質問したり、少し騒がしく話したりしていた彼女、彼らの顔つきが、がらりとかわり一気に真剣に聴き始めました。

今回、地震の被災者の語りとそれを聴くことの大切さをテーマにした講演をするためにイスタンブルに来ました。この学校で私の経験を語ることが、まさに私たちのテーマを実践しているのだと、目の前の子供たちの表情を見て感じました。

学校の給食(インゲン豆の煮込み、ピラフ、ヨーグルト、サラダ)  
 

とても充実した一日でした。お誘いくださり、ありがとうございました。

2024年10月6日日曜日

夫がトルコにやってきた〜その3(完) 黒いサプライズ〜

夫がイスタンブルに到着し、ハプニング続きがやっとおさまりホッとしたその夜、友人がアレンジしてくれた夕食に招待された。

18時半にホテルに迎えに行くと言われた私たちは、そのように準備を始めた。シャワー後に髪を乾かしていると、電話がなり「タクシーが来た」とフロントからだった。「タクシーなんて呼んでいませんけれど」と、返事をした。

約束通りの時間にフロントに降りていくと、私たちと同様、今回の講演者であるアメリカ人夫妻がいて、どうやら一緒にタクシーで向かうらしいことがわかった。タクシーは呼ばれていたのだった。友人から夕食は20時からの予約だと聞いていたので、どうしてそんなに時間がかかるのか不思議に思っていたら、ホテルからかなり遠くに行くことになっていた。

友人が指定した場所まで、タクシーで1時間半かかった。イスタンブルの夜の大渋滞を知っているのに、どうしてそんなに遠くまで連れていくのか・・・アメリカ人夫妻と私たちは、何がなんだかわからずに、疲れ切って到着した。友人が待っていた場所が、食事の場所だと思ったら、なんとボートに乗せられた。また、何が何だか分からない・・・

ボートの中で食事?かと思ったら、ライトアップされたボスポラス第二大橋を見ながら、対岸のアジアサイドまでクルージング。とても粋で素敵なサプライズ。綺麗な景色に見惚れてしまった。でも、時間はすでに9時。ホテル出発から2時間半経過。

ライトアップされたボスポラス海峡第二大橋 
 

ボートを降りると、一目で高級だとわかるシーフードレストランが予約されていた。そして、そこに彼の知り合いのトルコ人女性Zさんが1人待っていた。とある会社のCEOだと紹介された。

6人なので、友人、Zさん、夫、そして、友人の前に、アメリカ人女性、その夫、私と座った。(私の前が夫)友人は、Zさんに私たち4人を紹介した。私がトルコ語が話せると知ると、どうしてトルコ語を知っているのかと友人に聞いた。(←ここ重要)

前菜から始まり、洗礼された料理が次々とめいめいにサーブされ、食事は11時まで続いた。

その日イスタンブルに到着した夫は、体力の限界だった。アメリカ人夫妻も私も同様、かなり疲れていた。11時になったので、お暇したい旨伝えた。私は、本当に帰りたかった。もうその場にひと時もいたくなかった。

レストランで食事が始まってから、帰るまでZさんは、一度も私たちに話しかけなかった。ずっと、アメリカ人夫妻に英語で話しかけ、友人と4人で話が弾んでいた。Zさんの横にいる夫や斜め前にいる私の顔を一度も見なかった。私たちが、まるでそこに存在しないかのようにZさんは振る舞った。彼らに何枚も自分の写真を見せても、こちらには見せず、夫が話しかけてもろくに返事をしなかった。アメリカ人夫妻は、気を利かせて何度か私たちに話しかけてくれたけれど、Zさんはその話には加わらなかった。夫が、アメリカ人夫妻にふった話題にも入ってこなかった。彼女の体はまっすぐ前ではなく、ずっと彼らの方を向いていた。意識的にしていたのではないと思うが(思いたいが)、最初から最後まで、私たちはZさんのアウトオブ眼中だった。そのアウェイ感は計り知れなかった。

アメリカ人夫妻が同時に、洗面所に行った時、夫は今、2人がいないので、感じたことを彼女に言ってもいいかと、私に聞いた。何を言いたいのか分かったけれど、招待してくれた友人の顔を潰すことになるので、後で私が彼に伝えると言い、私たちは我慢することにした。

最後に席を立つ前に、夫がZさんに流暢な英語は、どこで習ったのかと聞いたところ、トルコの高校で習い、海外に留学した経験はないと答えた。それで納得した。仕事では海外を飛び回っているようだが、仕事でしか外国人と付き合っていない。平場でマイノリティとして扱われた経験がないので、自分がしていることがレイシズムに当たるとは思っていない。

後で、友人に伝えたけれど、彼女はそんな人ではないと笑顔で言われた。夫は、彼女に自分がレイスストであることを伝える方がいいと友人にアドバイスしたが、彼が伝えることはないだろう。Zさんも、きっと海外からのゲストを十分にもてなしたと思っていることだろう。確かに全てが素敵な夜だった、Zさんの振る舞い以外は・・・

こうしてせっかく友人の粋ななサプライズが、大好きなトルコの思い出の中で、初めての黒いシミとなった。早朝からトラブル続きの一日が、この黒いサプライズで締めくくられた。

「夫がトルコにやってきた」完