2018年1月27日土曜日

お米料理といえばピラウ(ピラフ)〜オスマン時代の細密画にも描かれる〜

ひよこ豆入りのピラウ(ピラフ)
前回のお米の話の続きを書こうと思います。

トルコのお米は粘り気がないのですが、新米がバザールで売られ始めたと聞くと、日本人の友人たちはこぞって買いに走っていました。新米で小さな粒のお米だと、粘り気があり、日本で食べるご飯に近いものが炊けるからです。

スーパーで売られている普通のお米でも、炊きたては美味しいのですが、冷めるとやはりパサついていました。そのかわり、焼き飯には重宝していました。

トルコで、お米は様々な料理の材料として使われると、前回のブログで書きましたが、一番は、何といってもピラウ(pilav:ピラフ)でしょう。(ブルグルという挽き割り小麦で作られるピラウもありますが、ここではお米のピラウについて書きます。)

トルコ料理のピラウには、お米の粒が大きい程美味しくできると言われています。バルドー(baldo)という種類のお米が使われることが多いです。

トルコの友人は、働くようになったら、値段が高いこの大きな粒のお米が買えるようになり、美味しいピラウを作りたいと、学生の頃に思っていたらしいです。ピラフはトルコの人たちにとっても、いつも食べたい料理の一つなのです。

そのピラウは、決して 軽んじられる料理、脇役ではありません。れっきとした、メイン料理なのです。オスマン時代のお屋敷では、新しく料理人を雇う時には、ピラウも作らせてその腕前を見極めたそうです。

ピラウを食べている写真は『Osmanlu Mutfağı〜Gelenekten Evrensele〜』という本の226頁から引用しました。Yunus Emre Akkor 'Osmanlu Mutfağı〜Gelenekten Evrensele〜 

宮殿での宴席では、ピラウが食卓に登場している細密画からも、ピラウがご馳走であったことが分かります。

上の写真は、『İstanbul'un Lezzet Tarihi』という本の31頁からの引用です。(Artun ÜNSAL, 'İstanbul'un Lezzet Tarhihi') 細密画には「初期のオスマン時代の宮廷台所は、とても簡素であったが、しかし、16世紀以降は、オスマン帝国の富と強大さの一つの反映として、宮廷台所も多様性を示すようになった。1720年、スルタンンアフメット3世の皇子たちの割礼式の祝宴」と、記載されています。細密画に描かれている上のテーブルではデザートが、下のテーブルではピラウが食されています。

写真の細密画での上のテーブルでは、ピラウを食べています。この写真は『Türk Mütfağı』という本の108頁から引用しました。Arif Bilgin, Özge Samancı,'Türk Mütfağı' 
この細密画では「1720 (年)イマム(イスラム僧)とイスラムの説教者へ設けられた祝宴」と、説明されています。
また、富裕層のお屋敷の会食では、デザートの前に、お客人への最後の料理として、ピラウが出されるのが、昔のイスタンブルの伝統でした。(Artun ÜNSAL 'İstanbul'un Lezzet Tarihi

この話を読んで、トルコのことではありませんが、アゼルバイジャンの結婚披露宴に招かれて、行った時のことを思い出しました。食事の最後に、突然スモークが焚かれ、着飾った女性がホールに入り舞い始めました。そして、その後から、仰々し く箱が運ばれて来ました。その中に、サフランの入ったピラウが入っていて、客人たち一人一人にサーブされました。ピラウが最後に供される料理なのだと、驚いた記憶がよみがえり ました。

オスマン時代の細密画では、食卓にあるピラウは単品ですが、今日のトルコでは、細密画に描かれているような具の入っていないプレインなピラウは、別の料理と一緒に出されます。これは、食生活が豊かになったからなのか、ピラウへの思いが少なくなったからなのか、はたまた他の理由があるからなのでしょうか…。