2017年7月31日月曜日

練り菓子ヘルヴァ〜その3・ヘルヴァの作り方と新しいバージョン〜

ヘルヴァはその昔、ハルヴァ(Halva)と呼ばれていたそうです。それが19世紀末に、イスタンブル方言でヘルヴァと呼ばれるようになり、現在に続いています。

さて、ヘルヴァについて、色々と書いてきましたが、実際にヘルヴァとは、どんなお菓子なのでしょうか。現在、ヘルヴァといえば、イルミック・ヘルヴァス(irmik helvası)か、ウン・ヘルヴァス(un helvası)があげられます。

イルミック・ヘルヴァスは、トルコ語で「イルミック」というセモリナ粉を使い、ウン・ヘルヴァスには、トルコ語で「ウン」すなわち小麦粉が使われます。両方とも、使われている他の材料や作り方もいたってシンプルです。

私が愛用しているトルコ料理の本には、イルミック・ヘルヴァスの材料は、イルミック、グラニュー糖、バター、水とアーモンド と書いてあります。 アーモンドの代わりに、松の実が入ることもあります。日本で書店などで売っているレシピ本には、材料の全てにきちんと重さが、グラム単位で表記されています。これは私たちには、当たり前のことですが、なんと、トルコの料理本、いや、ネットのレシピ記事でも、材料の重量については、たとえば、水飲みグラスとかチャイ(トルコの紅茶)グラス何杯、などと書かれています。アバウトですよね。

パンやクッキーなど、粉ものを作る時など、最後に入れる小麦粉の量は「耳たぶの硬さになるまで」や「必要なだけ」などと書いてあることもあります。これは、たねが指にくっつかなくなるまでなどと、料理を知っている人にしか分からない感覚だと思います。 難しいですよね。

トルコ人の友人のお母さんは、料理を作りながら「こうやってね…」「こんな感じにしてね…」などと言いながら、教えてくれるのですが、どう「こうやるのか」、どんな「こんな感じなのか」が、まったく分かりません。ようするに、ことばは当てにならず、自分の感覚と自分の舌で覚えるしかないのです。

話がそれてしまったので、作り方に戻ります。
先ずグラニュー糖を水にいれて、煮とかします。別の鍋に入れたバターで、アーモンドが色づくまで炒めます。そこにイルミックを入れ、30分程炒め続けます。そこに、砂糖水を入れ、水分がなくなるまで炒め炊きします。これで完成です。完成したヘルヴァは、木のスプーンですくい、サーブします。

これがウン・ヘルヴァスになると、イルミックが小麦粉に変わり、水か牛乳を入れます。ここで、松の実が使われることもあります。この松の実は、イルミック・ヘルヴァスとウン・ヘルヴァスに共通して使われる材料です。松の実の代わりに、クルミや先述したアーモンドが使われることもあります。

しかし、ウン・ヘルヴァスの作り方は、イルミック・ヘルヴァスとは違い、先ずバターを溶かし、そこに小麦粉を入れて、茶色に色づくまで30分ほど炒めます。そこに砂糖を入れ、少し混ぜた後に、水か牛乳を加え蓋をしめ、水分が吸収されるまで休ませます。これで完成です。完成したら、木のスプーンですくって一人前ずつ形を作り、その上に、アーモンドやクルミを飾って、サーブします。(Artun ÜNSAL 'İstanbul'un Lezzet Tarihi)

イルミック・ヘルヴァスもウン・ヘルヴァスも、上にシナモン、クルミ、松の実など、それぞれの家庭に好みの流儀があり、それぞれにレシピがあるようです。家庭でたくさん作らなければならない時は、大量のイルミックや小麦粉を混ぜ続けるのは、かなりの体力が必要なはずなので、ほんとうに大変だと思います。

私の持っているトルコ各地の地方色豊かな主婦の料理を収集したレシピ本には、7種類のヘルヴァのレシピが載っています。トウモロコシが産物の黒海地方では、トウモロコシの粉のヘルヴァがあるように、それぞれ、地方の特色が出ているヘルヴァが記載されています。(Tuğrul Şavkay 'Halk Mutfağımız〜Geleneksel Tatlarımızdan Seçmeler〜)でも、作り方や使われている材料は、どれもシンプルなのです。

新しいバージョンの、アイスクリーム入りイルミック・ヘルヴァス
日本では、たとえば焼きそばというメニューが、オムそば、モダン焼き、そばめしなどなど、つぎつぎとその変化形が考案される傾向があるように思います。しかし、トルコでは、オリジナルの料理の型が頑固に守られ、あまり変化していかないように思うのです。

ところが、例外的に、あるレストランで、このイルミック・ヘルヴァスの新しいバージョンを食べる機会がありました。どんなヘルヴァなのかというと、まだ暖かい、イルミック・ヘルヴァスの中に、なんとアイスクリームが入っていました。スプーンを入れると、中のアイスクリームが溶け出して、クリームのようにイルミックと混ざり合い、大層美味でした。

このように段々とではありますが、保守的なトルコ料理の世界にも柔軟さが入り込んできたのかな…と思いました。



2017年7月19日水曜日

練り菓子ヘルヴァ〜その2・ヘルヴァを食べる集まりヘルヴァ・ソフベティの奥深い世界〜

前回、ヘルヴァというお菓子は、人生の節目節目に食される重要な食べ物だと書きました。それは、オスマン時代の宮殿でも同じことだったようです。

宗教的休日などの季節儀礼として、皇帝に子供が生まれた時などの通過儀礼として、また皇帝が即位した時や、戦いに勝った時などの特別な慶事に、このヘルヴァが宮殿内に振る舞われたのでした。

このようにヘルヴァは当時でもたいへんポピュラーなお菓子だったのですが、ただ、ヘルヴァという言葉が、当時の文献などで一番よく登場するのは、ヘルヴァ・ソフベティ(helva sohbeti)という熟語なのです。そのまま訳すと「ヘルヴァのおしゃべり」ですが、その意味するところは、ヘルヴァを食べながら語り合うということになります。

今回は、食べ物自体のヘルヴァではなく、このヘルヴァ・ソフベティについて、書きたいと思います。

オスマン時代、ヘルヴァ・ソフベティを準備する人々。当時、同じお皿から銘々がスプーンですくって食べた。
チューリップ時代(1718−1730)と呼ばれ、華美な文化がもてはやされたオスマン帝国時代。ヘルヴァ・ソフベティは、大変ポピュラーでした。その時代の皇帝アフメッド3世が、文人や詩人、学者や知識人たちを招いて開いたヘルヴァ・ソフベティは特に有名で、著名な詩人の詩に残されるほどでした。この集まりには、トルコの講談師や噺家に当たるメッダー(meddah)といわれる独り語りの芸人も呼ばれて、楽しい余興も伴いました。

この時代の、詩や音楽を伴うヘルヴァ・ソフベティは、もてなしの場である食卓の豪華な食器やその周りの贅をこらした調度をとおして、自分たちの富を見せびらかし、その多寡を競うことに取り付かれた政府の要人たちにとって重要な機会でした。これが、何百年も続き、イスタンブルの人々が集う主要な機会の一つとなりました。そこでは、ただのおしゃべりというより、高尚な話題が好んで話されていたのでしょう。

また、ヘルヴァ・ソフベティには、冬の夜長に、イスラム教の教団や商工会に所属している人たちや、裕福な人たちが催すものもありました。そのような場合は、ヘルヴァといっしょにお漬け物や甘い飲み物も供され、お祈りもするという半宗教的な形式をとりました。

ヘルヴァ・ソフベティは、やがて一般市民にも広がりをみせ、地区の名士の家で持ち回りで催される、食事付きの集まりとなっていきました。(Artun ÜNSAL 'İstanbul'un Lezzet Tarihi)

しかし、この集まりに参加するのは、全て男性で、いわば女性抜きのサロンのような社交の場だったのです。

このヘルヴァ・ソフベティは、詩以外の文学の世界にも登場します。さきほど、皇帝のヘルヴァ・ソフベティにはメッダーと呼ばれる芸人たちが話芸を供したと書きましたが、このメッダーとその話芸は、オスマン帝国時代に花が開きます。ですから、そのメッダー噺(meddah hikayeleri)には、ヘルヴァ・ソフベティやヘルヴァが登場します。

宮殿に呼ばれたメッダーたちは、皇帝の話し相手でもありました。日本の古典落語が、江戸文化を反映しているように、トルコのメッダー噺には、オスマン時代の文化が生き生きと描写されています。実は、このメッダーとメッダー噺は、私の博論のテーマでした。日本の論文にも取り上げているので、よろしければこちらの方もご覧ください。

論文:近世トルコの口承文芸にみる都市のイメージとエスニシティの多様性〜メッダー噺とそこに表現されたイスタンブルとエスニック集団〜

話がそれてしまいました。
このように、ヘルヴァは、文化や文芸のシンボルでもあり、大変奥の深いお菓子なのです。



2017年7月14日金曜日

練り菓子ヘルヴァ〜その1・人生の節目節目で食され、重要な意味合いを持つ〜

お菓子続きのブログで、今回はヘルヴァ(helva)です。

このヘルヴァなるお菓子ですが、実は、練り菓子のヘルヴァと、タヒン(胡麻)・ヘルヴァスという熱を加えずに、胡麻で作ったものの2種類があります。今回は、練り菓子のヘルヴァを取り上げたいと思います。

イルミック・ヘルヴァス(セムリナ粉のヘルヴァ)
 先ず、このヘルヴァという単語は、アラビア語源の「甘い」という言葉に由来します。前回、「ヘルヴァジ」について、触れましたが、ヘルヴァジは、かつては甘いものを作る人という意味で使われていました。だから、ヘルヴァジは、パイ菓子に似たバクラヴァも作っていたので、ヘルヴァだけを作っていた訳ではありません。今日のお菓子職人のことですね。

しかし現在では、「甘い」という言葉は、トルコ語起源の「タトル」 (tatlı)が使われています。お菓子職人のことも「タトルジュ」と呼ばれています。(ケーキ類を作る、イタリア語起源のパスタジュもありますが…)

「ヘルヴァ」を日本語の辞書でひくと、「とても甘い菓子(小麦粉、油、砂糖などを固めたもの)」、トルコ語の辞書でひくと「砂糖、油、小麦粉またはイルミック(セムリナ粉)で作られたデザート」と書かれています。そして「「ヘルヴァジ」は、「ヘルヴァを作る人、または売る人」と書かれています。

ヘルヴァから派生した「ヘルヴァハネ」という言葉は、オスマン時代、トプカプ宮殿でデザートを作っていた場所をさします。もう一つは、ヘルヴァを作る時に使われる、広くて少し深めの鍋を意味します。ヘルヴァを加熱して調理している時に、鍋底から側面にかけて練りやすいカーブになっているのが特徴的な銅製の鍋だそうです。(Yunus Emre Akkor 'Osmanlu Mutfağı〜Gelenekten Evrensel〜)

実は、このヘルヴァというお菓子は、イスラム社会にとって、多様な意味を持つシンボルとしていろいろな場所に登場します。社会的なコミュニケーションの手段や、善行を積むためにアッラーの神に捧げるものなのです。

ある時は、願掛けのために作られます。例えば、村に雨が降らず、雨乞いの祈りをした後、大昔から続いているように、特別に作られたヘルヴァを村人全員で食べたそうです。

ヘルヴァは、またある時には、感謝やお祝いのシンボルです。春になり、羊の毛の刈り込みが終った後のお祝いに、ヘルヴァは欠かせません。

集まって一緒に食べるヘルヴァは、和解のお祝いとしての意味もあります。諍いや仲違いのしこりを氷解するために、作られたヘルヴァの周りを囲んで一緒に分け合い、喜びます。

アッラーへの感謝の意を表すために、出産、入学、卒業、割礼、兵役、婚約、結婚、死、命日などの人生の節目節目の慶弔時で食されています。

また、新居を購入した時や、メッカに巡礼に行く前や帰って来てからのお祝いのために、ご近所さんなどにヘルヴァが振るまわれます。私も、ご近所さんから、時々、ヘルヴァのお裾分けを頂いていましたが、今思えば、どんな出来事があったのかを聞いて、お祝いやお悔やみの言葉をかければよかったと思います。

祝い事だけではなく、悲しい日々のシンボルでもあります。甘いヘルヴァを食べることで、悲しみや苦しい日々の辛さが、軽くなるようにとアッラーに祈るためです。トルコ語には”Tatlı yiyelim, tatlı konuşalım”(タトル イエリム タトル コヌシャルム:直訳は甘い物を食べて、甘く話そう)という表現があります。つまり、「甘い物を食べれば、言葉も甘くなる」ということでしょう。人生の苦痛を癒すために、愛する家族の死や命日に故人を偲んでヘルヴァは作られます。
お葬式で故人の家族がヘルヴァを振る舞う。
http://www.aliseydi-sevim.com/haber
_detay.asp?haberID=1085より
 昔のイスタンブルでは、ご近所で誰かが亡くなると、その家族のために3日間食事を作って運びました。喪に服している家族の悲しみを分かち合い、社会的連帯を強める習わしでした。スープや、肉料理、ピラフなどをご近所さんがそれぞれに作り、季節の果物と一緒に持って行きました。

反対に、お葬式の日の夜には、亡くなった家族に近しい人たちの方が、松の実入りのイルミック・ヘルヴァスを作り、ご近所さんたちに振る舞いました。これを受け取ったご近所さんたちは、亡くなった故人の冥福のために祈りを捧げます。(Artun ÜNSAL 'İstanbul'un Lezzet Tarihi)

ヘルヴァは、亡くなった家族の人たちからご近所へ、果物はご近所から亡くなった家族 へと送られます。その逆はないのでしょう。

現在でも、イスタンブルだけではなく、かなりの地域で、まだ失われていない風習の一つです。このように、小麦粉やセモリナ粉に砂糖とバターなどの油を入れて練る単純な(30分も練っていたので時間はかかりますが)ヘルヴァは、単なるお菓子ではありません。いろいろな意味を含む大切な食べ物なのです。




2017年7月10日月曜日

古い歴史を持つパイに似たお菓子バクラヴァ〜作り方には職人技が必要〜

前回のブログで、パイに似たバクラヴァに触れたので、今回は、このバクラヴァについて説明したいと思います。

バクラヴァは歴史が古く、オスマン時代では、ラマザンやバイラムに欠かせないお菓子でした。バクラヴァの最古の記録は、1473年、メフメット2世の時代のものです。宮廷の仕入れ台帳に、5〜6種類のバクラヴァの名前が記録されています。(Tuğrul Şavkay 'Tatlı Kitap〜Türk ve Dünya Tatlıları〜)ただ、私は想像するのですが、当時、宮廷で食べるお菓子は、当然、専属の菓子職人(ヘルヴァジ:挿絵右)が作るはずなので、おそらく、完成したお菓子を仕入れたのではなく、バクラヴァの材料を買い入れたのでしょう。

1539年には、宮廷で行われたスルタンの息子、ジハンギルとベヤジィットの割礼の儀式に当たって、バクラヴァが振る舞われたという記録もあります。

19世紀には、メロンを入れたバクラヴァのレシピが登場します。また、宮廷では、断食月の15日目に、このバクラヴァをがイエニチェリと呼ばれる歩兵軍団に振る舞われました。(Yunus Emre Akkor 'Osmanlu Mutfağı〜Gelenekten Evrensel〜)

では、このバクラヴァはどんなお菓子なのでしょうか。皆さんは、パイに似ているというと、ミルフィーユなどのお菓子を思い浮かべると思います。日本で知られている一般的なパイは、生地にバターを練り込み、焼くと何層にもなるパイ生地からできています。

しかし、バクラヴァは、ユフカという薄い皮を1枚ずつ重ねて作ります。一枚のユフカは、小麦粉と卵に水と油を入れ練った生地に、コーンスターチなど、スターチ類を振りかけ、めん棒のような細長い棒で延ばしながら作ります。トルコ語では、ユフカを作ることを「ユフカを開く」と言います。そして、このユフカは、向こうが透けて見えるほど薄く延ばすのが美味しくする秘訣です。よいユフカは「紙巻きタバコの紙のよう」だと表現されていて、「ユフカを透かしても新聞が読める」のがよいとも言われます。職人の腕が試されるものなのです。

職人技といえば、このユフカにはスターチ類が振り掛けられているため、手早くしないと乾燥して、破れてしまいます。昔は、料理人を雇う前には、先ずピラフとバクラヴァを作らせ、バクラヴァを焼く入れ物の大きさに、きちんとユフカがおさまるように伸ばすことができるか、どれだけ薄く伸ばすことができるかなど、腕を試したそうです。(Tuğrul Şavkay 'Tatlı Kitap〜Türk ve Dünya Tatlıları〜)

このユフカを、油をひいた大きな丸い円盤のようなパイ皿に少なくとも10枚以上は重ねて、パイ生地ができます。重ねられたユフカの間には、薄く油を塗ります。その上に、クルミを砕いたのを入れると、ジェビズリ(クルミ入り)バクラヴァになり、ピスタチオの砕いたのを入れるとフストゥックル(ピスタチオ入り)バクラヴァになります。そして、その上に、また10枚以上のユフカを重ねていきます。昔のイスタンブルの裕福なお屋敷では、最低でも100枚のユフカを入れるようにと要求されたそうです。(Tuğrul Şavkay 'Tatlı Kitap〜Türk ve Dünya Tatlıları〜)

さて、この生地を市松模様に切り込みを入れ、上から溶かしバターをどっさりかけます。私の持っている本に載っているレシピには(Tuğrul Şavkay 'Tatlı Kitap〜Türk ve Dünya Tatlıları〜)10人分の材料として、900ミリリットルの溶かしバターと書かれています。かなりのカロリーですね。これをオーブンに入れて焼き、取り出して、すぐその上からシロップをたっぷりかけます。ものすごく甘いです。トルコ式パイのバクラヴァには、色んな種類や形がありますが、作り方は大同小異です。

トルコに最初に着いた日の、お昼ご飯に、デザートとしてこのバクラヴァが出てきました。フォークを入れると、中からたっぶりのシロップが流れだし、一口食べて、その強烈な甘さに頭がしびれました。エスプレッソのような濃いコーヒーがないと、食べられないと断念してしまいました。しかし、町のバクラヴァジ(バクラヴァ屋)には、いいお年をめした男性が、一人、飲み物なしでバクラヴァを召し上がっている光景を何度も見かけました。

最初の印象が強烈で、それ以降食べたいと思った事がなかったのですが、長年住んでいると不思議なもので、それが食べたくなってくるのです…。特に、重いトルコ料理をしっかり頂いた後には、この甘いお菓子でシメないと、食事をした気にはなりませんでした。慣れって怖いですね。