2017年11月6日月曜日

イスタンブルから〜トプカプ宮殿の食卓で使われていた磁器コレクション〜


トプカプ宮殿の台所を今回、特別に同博物館学芸員のÖさんに案内いただき、見学する機会を得ました。

トプカプ宮殿は、日本でもよく知られたイスタンブルの旧市街地にある有名な観光名所の一つです。

金角湾、マルマラ海、そして、ボスポラス海峡に囲まれた小高い丘の広大な敷地に、メフメット2世によって15世紀に立てられました。オスマン時代のスルタンの居住としてだけでなく、行政の中心地でもありました。現在は、博物館として観光客だけでなくトルコの人たちも訪れる場所です。

トプカプ宮殿は、ヨーロッパにある宮殿のイメージではありません。ヨーロッパのお城といえば、何階にも高くそびえていますが、トプカプ宮殿は高い建物ではなく、広い庭園もあり自然の中に建てられてています。

私もトルコ滞在中には、友人や知人がイスタンブルに来ると必ず一緒に行き、毎回ハーレムと宝物館は、見学していました。一番知られているのが、この2カ所だったからです。しかし、今回の来土の目的の一つは、宮殿の台所の見学をすることでした。学芸員の方から説明していただくという機会に恵まれ、大変楽しみにしていました。

今回は料理の話ではありませんが、その方から聞いたことを、このブログでまとめてみたいと思います。


トプカプ宮殿の台所は、第二庭園の右側にあります。海側から見ると一番高い「正義の塔」の左側に、シンボルとしての煙突が10本もそびえたっている場所です。当時は、1日に5000人分の料理を作っていた巨大な台所です。特別な行事や式典などには、多い時で15000人分も作られていたそうです。

現在、その大部分には、沢山のポルセレン(porselen:磁器)コレクションが展示されています。(残念ですが、写真は禁止でした。)

中国磁器は、金製や銀製より貴重なものとして扱われていました。磁器のことは「白い金」と呼ばれていたことから、どれほど重要視されていたかが分かると思います。何故なら、オスマン帝国では19世紀の終盤まで磁器を作ることができなかったからです。
そのため、中国製の磁器は壊れても修理して、大切に使われていました。使われない時には、金や宝石などをしまっておく場所で保管されていました。

宝石で飾られた磁器

 磁器のお椀の周りをルビーやエメラルドや金で装飾し、スルタンなどに贈呈されました。中国製の磁器は、15700ものコレクションとして残されています。(写真は『Türk Mütfağı』という本の293頁から引用しました。Arif Bilgin, Özge Samancı,'Türk Mütfağı'

中国以外の場所で、一番多くのコレクションをこのトプカプ宮殿が持っています。




銘々が大皿から食べる
展示物には、いろんな大きさの中国磁器が展示されています。 19世紀後半まで、宮廷での食事には、ヨーロッパスタイルの食器のセットではなく、和食のようにいろいろな種類の食器を使っていました。そして、一人一人の取り皿はなく、大皿にもられたものをスプーンで銘々がすくって食べていました。(写真は同上の本の8頁から引用しました

磁器の裏側には、どのスルタンが使っていたか、どんな料理に使われたかが書かれているものもあります。例えば、あるお皿にはチキンケバブと書かれています。チキンは高価なものでしたので、宮殿で一番使われていました。

また、その磁器の形によって、ジャム用、コンポスト用、ピラフ用、スープ用やおかず用などと、それぞれに名前がついていて、そこから何に使われていたのかが分かります。

食事の前には、アペタイザーとして塩気のものか、甘味のものか、酸っぱいものが磁器の小さい器に入れられて出されていました。 オリーブか、ナツメヤシかお漬け物だったようです。

中国製の磁器は、大変貴重で大切なものだったので、その器で給仕されるということは、相手を最上級扱いするという意味になります。そのためスルタンには、磁器で給仕されていました。そして、大宰相や外国の大使などにも磁器が使われていました。

左の頁の両端は青磁の水筒とお皿
中国製の磁器には、セラドン(seladon)と呼ばれる青磁があります。(写真は同上の本の294頁から引用しました

中国では、青磁器は毒が入ると、変色したりひびが入ったり、割れたりするという言い伝えあり、それがトプカプ宮殿にも伝わっていました。器に変化があった場所で、毒が盛られたことになるため、そんなはかりごとをさせないようにとの作り話だとも言われています。この青磁は、宮殿に2000以上ものコレクションとして残っています。

しかし、時代とともにこの中国磁器の人気がなくなり始めます。17世紀には、オランダの東インド会社を通して、日本の有田焼が宮廷に入るようになります。船で伊万里から出島、そしてオランダへと運ばれたことから、有田焼は「伊万里」と呼ばれていました。

それに対して、中国は今度、伊万里焼きをコピーして磁器を作り始めます。トルコ語ではこれを、Çin İmarisi(中国の伊万里)と呼びました。中国はオスマン側が喜ぶようにと、オスマントルコ語やコーランを書いたものも作り始めました。

1710年には、ドイツで磁器の質に近づいたものが作られるようになりました。そのためその後は、中国からではなくドイツ、 そしてフランス、オーストリア、ハンガリー、ロシア、イタリアから磁器の輸入を続けました。

18世紀後半から19世紀後半にかけて、ヨーロッパの国々から食器のセットがスルタンに進呈され始めます。1774年に、先ずポーランドから最初のヨーロッパスタンダードの磁器の食器セットが送られてきました。その食器にはスルタンを誉め称える詩が書かれていました。しかし、食器セットとはいえ、まだ完全なヨーロッパスタイルにはなっていませんでした。中央に大皿を置いて皆で食べるスタイルに応じて作られていました。その後は、フランス、ドイツなどヨーロッパ各地から、次々に食器セットが送られてきました。

ハーレムの女性たちも磁器を購入していて、自分たちで使ったり、自分の名前を書いて寄付していました。その金額が莫大になるので節約のために、ユルドゥズ 宮殿の庭にポルセレン工場を作り、1894年に磁器がイスタンブルで作られ始め、裏にはマイセンの印を思わせるような刻印が押されていました。

イスタンブルを陥落させたメフメット2世が「スルタンは一人で食事をとる」と、勅令に成文化したスルタンの食事のスタイルも、時代とともに変化していきます。響宴の際には、スルタンも客人たちと同じテーブルで食事をするようになり、外国からの客人には、フランス・スタイルのテーブルセッティングが施され、洋風とオスマン風の料理が出されました。それが、断食月になると、全てがトルコ風に戻ってしまうのですが…。イスラムに関する行事意外、外国の大事なゲストにはサラダ皿、ディナー皿、パン皿などが揃っているヨーロッパスタイルのセット食器が使われるようになりました。

このようにして、オスマン時代に使われていた磁器は、16世紀から20世紀にかけて、時代が進むとともに、アジアからヨーロッパ・スタイルへと少しずつ変化していきました。オスマン帝国だと誇りに思っていても、ライフスタイルにはヨーロッパ文化を取り入れるのが興味深いです。