2017年7月19日水曜日

練り菓子ヘルヴァ〜その2・ヘルヴァを食べる集まりヘルヴァ・ソフベティの奥深い世界〜

前回、ヘルヴァというお菓子は、人生の節目節目に食される重要な食べ物だと書きました。それは、オスマン時代の宮殿でも同じことだったようです。

宗教的休日などの季節儀礼として、皇帝に子供が生まれた時などの通過儀礼として、また皇帝が即位した時や、戦いに勝った時などの特別な慶事に、このヘルヴァが宮殿内に振る舞われたのでした。

このようにヘルヴァは当時でもたいへんポピュラーなお菓子だったのですが、ただ、ヘルヴァという言葉が、当時の文献などで一番よく登場するのは、ヘルヴァ・ソフベティ(helva sohbeti)という熟語なのです。そのまま訳すと「ヘルヴァのおしゃべり」ですが、その意味するところは、ヘルヴァを食べながら語り合うということになります。

今回は、食べ物自体のヘルヴァではなく、このヘルヴァ・ソフベティについて、書きたいと思います。

オスマン時代、ヘルヴァ・ソフベティを準備する人々。当時、同じお皿から銘々がスプーンですくって食べた。
チューリップ時代(1718−1730)と呼ばれ、華美な文化がもてはやされたオスマン帝国時代。ヘルヴァ・ソフベティは、大変ポピュラーでした。その時代の皇帝アフメッド3世が、文人や詩人、学者や知識人たちを招いて開いたヘルヴァ・ソフベティは特に有名で、著名な詩人の詩に残されるほどでした。この集まりには、トルコの講談師や噺家に当たるメッダー(meddah)といわれる独り語りの芸人も呼ばれて、楽しい余興も伴いました。

この時代の、詩や音楽を伴うヘルヴァ・ソフベティは、もてなしの場である食卓の豪華な食器やその周りの贅をこらした調度をとおして、自分たちの富を見せびらかし、その多寡を競うことに取り付かれた政府の要人たちにとって重要な機会でした。これが、何百年も続き、イスタンブルの人々が集う主要な機会の一つとなりました。そこでは、ただのおしゃべりというより、高尚な話題が好んで話されていたのでしょう。

また、ヘルヴァ・ソフベティには、冬の夜長に、イスラム教の教団や商工会に所属している人たちや、裕福な人たちが催すものもありました。そのような場合は、ヘルヴァといっしょにお漬け物や甘い飲み物も供され、お祈りもするという半宗教的な形式をとりました。

ヘルヴァ・ソフベティは、やがて一般市民にも広がりをみせ、地区の名士の家で持ち回りで催される、食事付きの集まりとなっていきました。(Artun ÜNSAL 'İstanbul'un Lezzet Tarihi)

しかし、この集まりに参加するのは、全て男性で、いわば女性抜きのサロンのような社交の場だったのです。

このヘルヴァ・ソフベティは、詩以外の文学の世界にも登場します。さきほど、皇帝のヘルヴァ・ソフベティにはメッダーと呼ばれる芸人たちが話芸を供したと書きましたが、このメッダーとその話芸は、オスマン帝国時代に花が開きます。ですから、そのメッダー噺(meddah hikayeleri)には、ヘルヴァ・ソフベティやヘルヴァが登場します。

宮殿に呼ばれたメッダーたちは、皇帝の話し相手でもありました。日本の古典落語が、江戸文化を反映しているように、トルコのメッダー噺には、オスマン時代の文化が生き生きと描写されています。実は、このメッダーとメッダー噺は、私の博論のテーマでした。日本の論文にも取り上げているので、よろしければこちらの方もご覧ください。

論文:近世トルコの口承文芸にみる都市のイメージとエスニシティの多様性〜メッダー噺とそこに表現されたイスタンブルとエスニック集団〜

話がそれてしまいました。
このように、ヘルヴァは、文化や文芸のシンボルでもあり、大変奥の深いお菓子なのです。